大通寺案内

本尊

住職ご挨拶

大通寺は正式には、「萬祥山 遍照心院 大通寺」といいます。本尊に宝冠釈迦如来(鎌倉時代作)を仰ぐ真言宗の単立寺院です。仏法修得の道場、かつ、檀家様ご先祖供養の寺院でありたいと念じております。
本堂の本尊左脇には等身大の源実朝公が正坐しておられます。大門横の不動堂からは大不動明王(1m50cm、鎌倉時代)が屹立して仏法護持の目を光らせておられます。
庭内には、国文学史上の名作『十六夜日記』の著者・阿仏尼公がねむる墓がございます。阿仏尼公は大通寺で修行した尼僧でした。
また、毎年十月の休日には、六孫王神社(八条壬生通り)のお神輿が氏子さま百数十名とともに当寺にお詣りされます。

慈眼視衆生 福聚海無量

大通寺の歴史

駒札

大通寺大門右側駒札

真言宗・萬祥山遍照心院大通寺はどのような由来の寺なのでしょうか。
まずは、京都市が当寺の前に立てている駒札(案内札)をお読みいただきましょう。

駒札

大通寺大門右側駒札

大通寺(遍照心院)

清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。

その後、二百六十余年を経た承応元年(一二二二年)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したと言われる。後に「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。

足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に努め、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。明治四十四年(一九一二年)には旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して現地に移転し、逼塞した。

本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚尼置文二巻、阿仏尼真蹟、阿仏塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。

京都市

重要文化財

重要文化財指定を受けている『善女龍王像』(鎌倉時代)、『醍醐雑事記八、九巻』(鎌倉時代)、その他所蔵の寺宝は、これまでも京都国立博物館、京都文化博物館、大阪市立美術館等で公開してまいりましたが、寺での一般公開は致しておりません。

大通寺所蔵の重要史料は東京大学史料編纂所刊行『大通寺文書』(活字版235 ページ)でご確認いただけます。なお、京都大学国史研究室も明治時代、大通寺文書の閲覧を申し込まれ、重要史料の写影を保管しておられます。